人口および世帯数(平成17年国勢調査)| 人口 | 18,761人 (男 8,944人 女 9,817人) |
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| 世帯数 | 6,160世帯 |
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町章
山都町の「山」の文字で人と自然が調和する町をデザインする。阿蘇外輪山と九州山地の緑に囲まれた町に、伝統薫るそよ風が吹くイメージ。 山都町らしさを町章からも感じてもらえるように町の将来像をテーマにし、町を包む自然とやさしい風が創るゆとりの空間を表現。 (兵庫県神戸市西区 杜多利香様の作品) | | 町の歴史本地域は中世時代、豪族「阿蘇氏」の支配下にありました。当初、阿蘇谷を根拠地としていましたが、承暦年間(1077年〜80年)には中央権力と結び大宮司として領主的支配を展開し、12世紀後半までに甲佐、郡浦(こうのうら)(三角町)、健軍神社を末社(まっしゃ)としてその社領も支配下に組み込みました。鎌倉時代に入ると、その勢力も阿蘇谷から南郷谷へ、そして外輪山を越え、小国、矢部へと広がっていきました。矢部町浜町に大宮司の本拠地として「浜の館」が設置されたのはこの時期の承元元年(1207年)頃です。約380年間矢部郷を拠点に勢力を振るった阿蘇氏も、天正14年(1586年)薩摩の島津氏の侵攻により浜の館を破壊され、矢部を去りました。 近世に入り、天正15年(1587年)、佐々成政が肥後の国主になりましたが、その後失脚し、清和の朝日地区と小峰地区を境に益城郡を支配する小西行長と阿蘇郡を支配する加藤清正の支配下に分かれましたが、その後、小西氏は滅び加藤氏が支配しました。 加藤氏の後を受け、寛永9年(1632年)小倉より細川忠利氏が肥後54万石を領して入国しました。地方行政の根幹をなす「手永制度」により、矢部と清和朝日地区は矢部手永、清和小峰地区と蘇陽は菅尾手永に属し、惣庄屋の支配下となりました。 昭和28年から32年にかけて、いわゆる「昭和の大合併」により、昭和30年2月1日に、浜町、下矢部村、白糸村、御岳村が合併し矢部町になり、ついで昭和32年4月1日に中島村、名連川村を編入合併し、現在の矢部町が誕生しました。昭和31年7月1日には、朝日村、小峰村が合併し清和村に、昭和31年9月30日には、馬見原町、菅尾村、柏村の合併により蘇陽町がそれぞれ誕生しました。 その後、昭和40年代の高度経済成長期を経て、道路などの社会基盤の整備や農地等の生産基盤の整備が進み、中山間地域の気候や環境などその特性を活かした農業が盛んに行われ、当地域の主産業として発展してきました。また、個性的な地域づくりや観光施設の開発などで、他地域からの宿泊者や交流人口も年々多くなっています。 平成15年1月22日に、矢部・清和・蘇陽合併推進協議会(任意)を、平成16年1月1日には、矢部・清和・蘇陽合併協議会(法定)がそれぞれ設立され、平成17年2月11日に、矢部町・清和村・蘇陽町が合併し、「山都町」が誕生しました。 |